配車サービスのウーバー・テクノロジーズは、自動車メーカー、自動車部品サプライヤー、そしてグーグルなどのソフトウェア企業などとともに、自動運転時代のリーダーを目指すキープレイヤーです。しかも、ウーバーは自動車を「所有からシェアリング」、そして「自動運転」へと、自動車と人の関わり方を変え、産業構造も大きく変える可能性をもった企業です。そのウーバーの試験運転中だった自動運転車が18日米アリゾナ州で歩行者をはね、死亡事故を引き起こしたことには驚かされました。しかも助手席にはドライバーがいたのですから、現実のなかでは「自動運転」のハードルが結構高いことへの再認識が広がることになりそうです。
トヨタは、この事故を受け公道試験を一時停止すると発表していますが、しかし企業のみならず、国家を巻き込んだ開発競争がこれで停滞するとは到底思えません。ただ現実は頭で描くほど単純ではなく、今回の事故のように歩行者が横断歩道でない道路を横断することも例外的なことではありません。

そして、少なくともいったい誰が事故の責任をとるのかの議論が起こってくるでしょうし、どこまで「自動運転」の安全性を保証するのかの基準も必要になってきそうです。

自動運転技術競争は、企業間の技術開発競争だけでなく、実験走行のための規制緩和、また事故が起こった際の法的整備も含めた自動運転導入を促進する環境整備での国家間の競争も重要な要素になってきます。

自動車産業は、いまでは日本が世界市場でトップを競い合える、数少ない規模の大きな産業です。日本の国力を維持するためには自動車産業の次の競争の焦点である自動運転からは一歩も後退できないのです。そして、自動運転は人工知能の開発力が鍵になってくるとしても、実際に道路を走行する自動車であるかぎり、センサー技術、制御技術といった「モノづくり」の技術の高さももとめられてきます。それは、一見は日本の強みをいかせそうですが、国もどれだけリスクを負って自動運転を促進する体制をとれるのかも鍵になってきます。

問題は、自動運転の鍵となる人工知能技術では、日本は米中に大きく遅れをとってしまっていることです。人工知能は、次世代の産業革命を牽引するばかりか、その影響を受ける分野が広く、経済に対するインパクトが大きいのですが、日本の人工知能への投資額は米国に比べ、政府予算で2割以下、民間では1割以下というお寒い状態にとどまっているのが現実です。それは、日本が確実に将来さらにさまざまな分野で産業競争力が低下し、貧しい国になっていく可能性が高いことを示しています。
ともすれば、私たちは目先の課題に目が奪われがちです。また政治も不毛で生産性や創造性の乏しい対立にとらわれてしまいがちです。また一部の保守主義の人たちや、また逆の立場の人たちが、将来を描かずに極端な発想をひたすら追求しているように見えますが、スポーツがトレーニングの質で結果が決まるように、技術開発環境づくり、あるいは投資のほうがはるかに重要ではないでしょうか。

森友問題は、教育勅語を幼児に暗記させる怪しげなカルト保守はいかに怪しく、いかがわしいかを見せてくれました。カルト保守と歩調を合わせた安倍政権のアキレス腱が生んだ事件なのでしょう。政治はこういったカルト保守とは手を切り、日本の将来戦略についてなにに集中投資するのか、またどのような、道筋で切り開いていくのかを議論するステージに移ってもらいたいものです。