フランスで起こったテロ事件で、欧米がスクラムを組みテロリズムを許さないと、各国首脳も参加してデモ行進を行なった波紋が消えないうちに、今度は「イスラム国」に拉致されていた日本人ふたりへの莫大な身代金要求の映像が流れ、世界に衝撃を与えています。テロは断じて許してはいけません。しかし、この間の報道についてはなにか釈然としないものを感じます。
まずは表現の自由の問題です。フランスでも、週刊新聞シャルリー・エブドが、イスラム教預言者ムハンマドの風刺画を掲載したことについては、賛否が分かれているようです。
自国の権力者を風刺画によって批判するのならともかく、宗教の尊厳を傷つけるとうのはいかにも品がないというばかりか、なんらかの報復があることの想像がつかなかったのかと疑問に感じるところです。
東京新聞:割れるフランス 風刺画掲載 テロ後世論調査:国際(TOKYO Web)
もうひとつは、テレビの報道などで、フランスは市民革命によって現在の体制を生んだ国であり、言論の自由や人権を伝統的に大切にしてきたと、さかんに言われていました。しかしそれは、素直に受け取ることはできません。フランスで自由や人権についての意識が大きく変わったのは、ベトナム戦争への抗議も入り混じって広がった1968年の5月革命以降で、それまではアルジェリア独立戦争への介入に異を唱えた文化人への圧迫もありました。
その象徴が、5月革命で人びとが歌った「拝啓 大統領閣下殿」ですが、長らくフランスではタブーになっていたものです。
日本では、高石ともやさんが訳詞して歌っていらっしゃいますが、もともとはベトナム反戦の歌ではなく、フランスが軍事介入したアルジェリア戦争に抗議したものでした。
拝啓 大統領殿
もしかすると自爆テロはそのアルジェリア戦争が最初だったのかもしれません。映画「アルジェの戦い」の最後のシーンは、少女が自爆テロに向かう場面だったのではないでしょうか。
確かに、テロによる犠牲は痛ましく、テロは卑劣だとも感じます。しかし、先進国で起こったテロは情報として世界に流れます。しかし、一方で、イラクやシリア、またイエメンやパキスタンなどへの空爆で、誤爆に巻き込まれて亡くなった現地住民の犠牲者の数は、9・11を除くと、テロによる犠牲者とは比較にならないほど多いのです。
とくに無人のクローンによる攻撃が犠牲者を増やしているといわれています。しかしそれが報道されることは比較にならないほど少ないのです。
テロリスト量産装置と化した米軍のドローン オバマよマララ・ユスフザイさんの声を聞け:JBpress(日本ビジネスプレス
米国の無人爆撃機を操縦していた若者の回想が…すさまじい(TBSラジオ、北丸雄二。元はNBC) - 見えない道場本舗
米軍の「イスラム国」空爆作戦は効果あるのか /軍事ジャーナリスト・黒井文太郎氏 | THE PAGE(ザ・ページ)
しかも、はたして空爆でテロリストを壊滅できるのかというとはなはだ疑問です。
たしかに日本のように人びとが密集した都市に、アメリカがつぎつぎに空爆し、焦土化したこと、また広島や長崎への原爆投下で、日本は甚大な被害を受け、敗戦に追い込まれました。それは国家間の戦争だったからです。
しかし、ベトナム戦争ではアメリカは空爆の効果もなく敗退してしまいました。対ゲリラ戦には国家間の戦争の延長では効果がないばかりか、多くの犠牲者を巻き込み、憎しみを広げ、さらにゲリラ戦士を増やすばかりでした。
池田信夫さんが書かれておられるように、かつてのアルジェリア独立戦争やベトナム戦争などがあった時代よりも、事態はさらに悪化しています。それは武器のコモディティ化です。いずれかの大国が影から支援しなくとも、安く、高性能な武器が当時とは比較にならないぐらい容易に手に入る時代になってしまったのです。
池田信夫 blog : コモディタイズした兵器で戦争が民営化される
現代は、先進国間あるいは大国間は、核兵器による戦争の抑止力が効いているだけでなく、経済や社会のグローバル化で戦争ができない状態になってきました。しかし、戦争の脅威は、宗教間、また民族間の対立によって拡散してきています。国家間の戦争から、テロリストとゲリラ戦の時代に移り、なにが脅威なのかも大きく変化してきています。もし彼らに核兵器が流れたらと思うとぞっとします。
テロを断じて許さない、テロを封じ込めるというのは勇ましいことです。しかし、はたしてそれが可能かどうかは別問題です。安倍内閣は、「積極的平和主義」を標榜し、欧米の有志連合と深く関わり、日本の存在感を印象付けることを選択し、また宣言しましたが、それは同時に今回のように日本人が標的になってしまうリスクを抱えることにもなります。
もちろん、人質をとり、身代金を要求することなど、誰もが許せないことですが、「許しがたい」と非難してもなんらの解決になるとは思えません。テロリストからすれば敵の立場に立てば、それは家族や仲間を殺した側に立ったことになってしまいます。
しかし、希望があるとすれば、あれだけアメリカと激しい戦争を行なったベトナムも現在では大きく変わったことです。かつてはベトナム戦争の兵站基地と化していた日本も、いまでは日本からベトナムに資本が投じられ、民間企業も多く進出しています。
結局は、その国の経済や政治、また社会の安定が得られなければゲリラも、テロも消えないということです。そのためには歴史の年月が必要なのでしょう。
日本は火種となっている地域から遠くはなれています。君子危うきに近寄らずというのも、立派な選択肢だという気もします。そのためにも、報道ができることといえば、一方の側に立った情報を流すだけでなく、もう一方の側の埋もれた情報を提供し、対立を客観的に俯瞰するスタンスをとることも重要なのではないかと感じます。
自国の権力者を風刺画によって批判するのならともかく、宗教の尊厳を傷つけるとうのはいかにも品がないというばかりか、なんらかの報復があることの想像がつかなかったのかと疑問に感じるところです。
東京新聞:割れるフランス 風刺画掲載 テロ後世論調査:国際(TOKYO Web)
もうひとつは、テレビの報道などで、フランスは市民革命によって現在の体制を生んだ国であり、言論の自由や人権を伝統的に大切にしてきたと、さかんに言われていました。しかしそれは、素直に受け取ることはできません。フランスで自由や人権についての意識が大きく変わったのは、ベトナム戦争への抗議も入り混じって広がった1968年の5月革命以降で、それまではアルジェリア独立戦争への介入に異を唱えた文化人への圧迫もありました。
その象徴が、5月革命で人びとが歌った「拝啓 大統領閣下殿」ですが、長らくフランスではタブーになっていたものです。
日本では、高石ともやさんが訳詞して歌っていらっしゃいますが、もともとはベトナム反戦の歌ではなく、フランスが軍事介入したアルジェリア戦争に抗議したものでした。
拝啓 大統領殿
もしかすると自爆テロはそのアルジェリア戦争が最初だったのかもしれません。映画「アルジェの戦い」の最後のシーンは、少女が自爆テロに向かう場面だったのではないでしょうか。
確かに、テロによる犠牲は痛ましく、テロは卑劣だとも感じます。しかし、先進国で起こったテロは情報として世界に流れます。しかし、一方で、イラクやシリア、またイエメンやパキスタンなどへの空爆で、誤爆に巻き込まれて亡くなった現地住民の犠牲者の数は、9・11を除くと、テロによる犠牲者とは比較にならないほど多いのです。
とくに無人のクローンによる攻撃が犠牲者を増やしているといわれています。しかしそれが報道されることは比較にならないほど少ないのです。
テロリスト量産装置と化した米軍のドローン オバマよマララ・ユスフザイさんの声を聞け:JBpress(日本ビジネスプレス
米国の無人爆撃機を操縦していた若者の回想が…すさまじい(TBSラジオ、北丸雄二。元はNBC) - 見えない道場本舗
米軍の「イスラム国」空爆作戦は効果あるのか /軍事ジャーナリスト・黒井文太郎氏 | THE PAGE(ザ・ページ)
しかも、はたして空爆でテロリストを壊滅できるのかというとはなはだ疑問です。
たしかに日本のように人びとが密集した都市に、アメリカがつぎつぎに空爆し、焦土化したこと、また広島や長崎への原爆投下で、日本は甚大な被害を受け、敗戦に追い込まれました。それは国家間の戦争だったからです。
しかし、ベトナム戦争ではアメリカは空爆の効果もなく敗退してしまいました。対ゲリラ戦には国家間の戦争の延長では効果がないばかりか、多くの犠牲者を巻き込み、憎しみを広げ、さらにゲリラ戦士を増やすばかりでした。
池田信夫さんが書かれておられるように、かつてのアルジェリア独立戦争やベトナム戦争などがあった時代よりも、事態はさらに悪化しています。それは武器のコモディティ化です。いずれかの大国が影から支援しなくとも、安く、高性能な武器が当時とは比較にならないぐらい容易に手に入る時代になってしまったのです。
池田信夫 blog : コモディタイズした兵器で戦争が民営化される
現代は、先進国間あるいは大国間は、核兵器による戦争の抑止力が効いているだけでなく、経済や社会のグローバル化で戦争ができない状態になってきました。しかし、戦争の脅威は、宗教間、また民族間の対立によって拡散してきています。国家間の戦争から、テロリストとゲリラ戦の時代に移り、なにが脅威なのかも大きく変化してきています。もし彼らに核兵器が流れたらと思うとぞっとします。
テロを断じて許さない、テロを封じ込めるというのは勇ましいことです。しかし、はたしてそれが可能かどうかは別問題です。安倍内閣は、「積極的平和主義」を標榜し、欧米の有志連合と深く関わり、日本の存在感を印象付けることを選択し、また宣言しましたが、それは同時に今回のように日本人が標的になってしまうリスクを抱えることにもなります。
もちろん、人質をとり、身代金を要求することなど、誰もが許せないことですが、「許しがたい」と非難してもなんらの解決になるとは思えません。テロリストからすれば敵の立場に立てば、それは家族や仲間を殺した側に立ったことになってしまいます。
しかし、希望があるとすれば、あれだけアメリカと激しい戦争を行なったベトナムも現在では大きく変わったことです。かつてはベトナム戦争の兵站基地と化していた日本も、いまでは日本からベトナムに資本が投じられ、民間企業も多く進出しています。
結局は、その国の経済や政治、また社会の安定が得られなければゲリラも、テロも消えないということです。そのためには歴史の年月が必要なのでしょう。
日本は火種となっている地域から遠くはなれています。君子危うきに近寄らずというのも、立派な選択肢だという気もします。そのためにも、報道ができることといえば、一方の側に立った情報を流すだけでなく、もう一方の側の埋もれた情報を提供し、対立を客観的に俯瞰するスタンスをとることも重要なのではないかと感じます。
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