
ブロゴスで木走正水さんの「原子力安全委員長はただの馬鹿者であることが判明 - 木走日記」 -という記事がありました。野球で言えば、豪速球の直球を投げたエントリーで、木走さんの書かれていることはほとんど正しいと感じますが、残念ながら投じたボールはストライクゾーンには入っていなかったように感じます。問題は斑目委員長だけにあったとはいえないのです。どのような組織であっても無縁ではない重要なマネジメントの問題なので、あえて書かせていただきます。
原子力安全委員長はただの馬鹿者であることが判明 - 木走日記 - BLOGOS(ブロゴス) - livedoor ニュース :
それにしても自民党の谷垣総裁が海水注入「空白の55分」の問題を菅総理批判として使った戦術の馬鹿馬鹿しさは、菅総理だけでなく谷垣総裁の政治家としての資質を疑わせるものでしたが、「空白の55分」は、当時の緊迫した中で情報のやりとりができていなかったこと、また菅総理や官邸の人びとが混乱し、冷静さを失っていたのか、マネジメントの機能が働いていなかったことが問題でした。
「可能性はゼロじゃない」
この斑目委員長の言葉は、いわゆる専門家にありがちな言葉です。一般的な常識的から言えば、木走さんが書かれているように次のようになります。
受け手側の科学的知識のスキルに合わせて専門的知見を相手が理解可能なように配慮して情報発信しなければならないのは当然なのに、「可能性はゼロじゃない」=「事実上可能性はゼロ」などという等式(?)は、学者同士で通用していたオレサマ基準かもしれませんが、日本語としては破綻しているわけで、まして一国の運命を左右するかも知れない重大な局面で使用する言葉じゃないでしょう、一般人が誤解する可能性をなぜ考えなかったのか。
原子炉に海水を注入するかどうか重大な検討をしているあの局面で、「可能性はゼロじゃない」では何もアドバイスにはなりません。
素人である受け手が「ゼロじゃない」を「ある」と解釈したとしてまったく日本語レベルでは正しいのです。
木走さんが書かれていることは、決して間違っているわけではありません。斑目委員長が無意識のうちに自らに降りかかるリスクを避けたのか、一般人が誤解する可能性に思いがいたらなかったのかのいずれかでしょうが、うかつな発言であったことは否定しようがありません。しかし「もしドラ」で引用されているドラッカーの次の言葉をあわせて読んでみると視点が変わってきます。
専門家にはマネージャーが必要である。自らの知識と能力を全体の成果に結びつけることこそ専門家にとって最大の問題である。専門家にとってはコミュニケーションが問題である。自らのアウトプットが他の者のインプットにならないかぎり、成果はあがらない。専門家のアウトプットとは知識であり情報である。彼ら専門家のアウトプットを使うべき者が、彼らの言おうとしていること、行おうとしていることを理解しなければならない。いやドラッカーを読んでいなくとも、常識的に考えれば、菅総理は「再臨界の可能性はないのか」ではなく、「今やるべきことはなにか」を問えばよかったし、「ゼロじゃない」という言葉に、「どの程度のリスクがあるのか」と聞けばよかっただけのことです。あるいは菅総理を支える官邸の誰かが、そう「翻訳」すればよかっただけのことです。
専門家は専門用語を使いがちである。専門用語なしでは話せない。ところが、彼らは理解してもらってこそ初めて有効な存在となる。彼らは自分の顧客たる組織内の同僚が必要とするものを供給しなければならない。
このことを専門家に認識させるのがマネージャーの仕事である。組織の目標を専門家の用語に翻訳してやり、逆に専門家のアウトプットをその顧客の言語に翻訳してやることもマネージャーの仕事である。
ドラッカーは、専門家を取り上げていますが、実際のビジネスのなかでは、そういった言葉の翻訳が必要な場面は数限りなくでてきます。
たとえば営業の人が、価格があわなくて売れないと訴えたとします。それですぐさま価格を下げようと判断するマネージャーは少ないと思います。
製品やサービスそのものの魅力や差別化が不足しているのか、提案が弱く十分に優位性が伝わっていないのか、取引先の交渉術にたんにはまってしまっているのか、ほんとうに価格で負けているのかなど瞬時にさまざまな可能性を考え、それらの選択肢のなかで、なにが成果につながる行動になるのかを判断しているはずです。
消費者の人たちの言葉もそうです。消費者の人たちは使い勝手については饒舌です。まともなリサーチャーはつねにその消費者の人たちのひとつひとつの言葉が、作り手、あるいは売り手にとってはどういう意味をもつのかをつねに頭の中で翻訳し、さらに作り手や売り手がとるべきアクションをより成果あるものにするために、さらに深い問いかけを消費者の人たちにするでしょう。
ビジネス現場では、ほんとうに背景の異なる独特の文化をもっている人たちがたくさんいて、それぞれの人たちの言葉の真意はなにか、また真意を引き出すための努力が必要だということを嫌というほど思い知らされます。
人は立場によって、異なる文化を持っています。同じ日本語を使っているからと言って、同じ意味で受け取っていいとは限らないのです。
「空白の55分」が物語っているのは、専門家の言葉を正し、さらに取るべき選択肢を探るマネジメントの機能の欠如でした。
ドラッカーの言葉を引用し、菅総理のマネジメント能力の欠如については、すでに「みんなの党」の山内康一さんが書かれており、次のような指摘をされています。
さて、東日本大震災における菅政権の危機管理を見ていると、危機管理(crisis management)をやっているというよりも、管理危機(management crisis)に陥っているとしか言えません。もしドラ:総理大臣編 - 山内康一の「蟷螂(とうろう)の斧」 - BLOGOS(ブロゴス) - livedoor ニュース :
まったくマネジメントがなっていないと思います。
女子高生でもわかるでしょう。
こちらも正しい指摘だと感じます。しかし、政治家は評論家ではないのです。批判しているだけでは困るのです。政治家は実際にコトを起こさなければなりません。つまり与党であれ、野党であってもいい流れに政治を動かすことが仕事であり、その責任を負っています。菅総理にマネジメント能力が欠如しているとすれば、実際に自らがどのような行動を行うことが、国民の利益になるのかを言葉と行動でしめす義務があるのです。あれだけ期待を集めた「みんなの党」が失速気味なのも、そこに原因があるのではないでしょうか。55年体制当時の批判するだけの野党との違いを感じないのです。
はたして、すでに炉心溶融と水素爆発が起こった後の「空白の55分」を谷垣総裁が責めたことが、被災地の復旧や復興につながるのか、あるいは打撃を受けた日本経済の再生に役立つのか、そうでなければ無駄な時間を費やした罪は大きいと感じます。菅総理の退陣が日本にとってほんとうに必要なことだと感じるならば、あの質問では「菅おろし」にはなりません。取るべき行動は他にあるはずです。たんに批判を繰り返すことで、つぎの選挙で民主党政権への批判票を吸収しようという下心しか見えてきません。
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最近の政治は与党も野党も骨の無いサラリーマン以下ばかり
が多すぎる。昔と違い主義もなく主張は評論家先生のコピー。共産党の方がしっかりしてますよね。
ただ僕は菅さんファミリーとは長い仲。民主党も今の自民党レベルと比べると、すてたものじゃないと思います。
もう少し政権を続けさせてこそ評価の時も来ると思います。
いろいろ騒ぐのが仕事の政治家は大問題。
政治家のビジネスモデルでの教育を新規事業に加えられたら。あなたこそ日本の為に立ちあがるべし。
政治が疎いと経済も壊滅。紹介しますよ。