なんのことかというと、朝日新聞と産経新聞の教科書問題をめぐっての社説の争いです。社説を誰もが読みくらべることは、ネットの時代だからこそできるのですが、あざらしサラダさんが詳細に、この喧嘩を取り上げていらっしゃいます。(ちなみに、社説やコラムを読むには、このリンク集が便利です)

さて、この歴史の教科書問題ですが、いつも感じるのは、考えなければならないことはなにかという観点がずれているということです。史実がどうだこうだ、いや違う、書き方がいい、悪いといったこと、しかも、そのほとんどが第二次大戦当時の問題にほとんどが集中してしまっています。しかし、この問題は、歴史の事実がどうであれ、そう簡単に片付く問題ではなく、またスポットを当てれば当てるほど、中国や韓国などの近隣諸国との摩擦を生むという不毛な結果になってしまっています。
もっと考えなければならないのは、歴史教育の問題の本質はどこにあるのかだと思います。
重要なことは、日本が敗戦した結果、アメリカの支配下に置かれ、「民主主義教育」という旗のもとに、まるでアンチ日本キャンペーンさながらの思想、歴史観を刷り込む教育が行われてきたということです。そのために日本人としてのアイデンティティ、また誇りや自信を失わさせらてきたということであり、そういった「戦後」の総決算が教育にも必要になってきたということだと思います。
竹村健一さんがおっしゃるように「反省」ばかりを教え、ワクワクする夢や明るい希望を感じる「虹」を歴史で教えてこなかった。そういった「虹」を教える教育を取り戻そう、それが本質だと思います。

しかし、なぜか、いつも第二次大戦当時の歴史問題に、まるでなにかに取り憑かれたように向かっていくのです。そんな歴史は、国内だけでワアワア言ってないで、日本と中国、また韓国をはじめとするアジアの国々と共同で検証していけばいいのではないでしょうか。
そもそも第二次大戦そのものが政治の失敗だったわけで、失敗を学んだり、検証するとというのはもっと大人になってからやればいいことです。そういう意味では『失敗の本質』という本で軍隊という官僚組織の失敗を学ぶことはできますが・・・


失敗の本質―日本軍の組織論的研究

それよりは、もっと日本人が輝いてきた歴史にこそ、まずはスポットを当てていくべきだと思います。日本は、韓国や中国からも学びながら、見事に日本独自の文化を生み出してきたという輝かしい歴史があります。また文化という点では、遣唐使の歴史でも感じるのですが、命をかけ、学び、なにかを掴むために危険な海路を辿ってまで、唐に向かった人びとの旺盛な好奇心、向学心に心を打たれます。
さらに、江戸の商人達、また明治時代の事業家のひと達のダイナミックで、すばらしい活躍は、日本人がいかに事業家として素晴らしいDNAを持っていたかを教えてくれます。若いホリエモンが、文藝春秋のインタビューでそのことを触れていますが、驚きました。実にその通りです。
明治の人たちは、国家の予算がないからといって事業をあきらめず、私財を投げ打って投資を行い、橋を架けたり、鉄道をつくったり、学校をつくったりしてきました。また産業をゼロから作り上げてきました。なんでも国の予算にしがみつくという情けなない姿はそこにはありません。
日本の歴史のなかには、いくらでも「虹」を見つけることができます。そういった「虹」を学べる教育を考えて欲しいですね。

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