木村剛さんのブログ「週間!木村剛」で「大所高所と銭勘定を結びつけるのは『阿呆』なのか?」というエントリーがありました。読んで思い出したのがドラッカーの「新しい現実」です。

新しい現実―政府と政治、経済とビジネス、社会および世界観にいま何がおこっているか

新しい現実―政府と政治、経済とビジネス、社会および世界観にいま何がおこっているか
この本の中で、政府が何をなすべきかということよりも、政府の機能や限界が中心的な問題になってくるだろうという考え方が示されています。政府だけでなく、政治と置き換えてもいいと思うのですが、そのなかで、役割の終わってしまった官の事業をなかなか放棄できない理由として、ひとつにはその事業に多くの既得権益がこびりついてしまっていることがあるとしています。これは道路問題、また郵政民営化問題、さらになかなか規制改革が大きくは進まないことを重ね合わせると分かりやすいですね。
さらに「経済的な問題には、費用対効果の尺度がある。しかし、倫理や道義にの問題では、費用対効果は、『原則放棄』や『背信行為』と同じであって、汚らわしい言葉とされる」というくだりがあります。
費用対効果という視点、つまり「銭勘定」で考えることがタブー視され、片隅においやられがちだということです。「大所高所」というのは、根っこには倫理や道議、あるいは信念、思想といったものから来ていると思いますが、それは結果がほとんど問われませんから言いたい放題です。新聞社の社説もその典型でしょう。こう書いたというアリバイにしかすぎないのかもしれません。
しかし、、日本ではまさに「銭勘定」の問題が焦点となってきてます。政府、また公共事業のあまりの不効率、膨れあがった財政赤字に国民の怒りも高まってきています。
政府の力ですが、実際、この何年かで日本が経験したのは、公共投資を大奮発しても景気回復につながらず、景気の回復は、「銭勘定」を求めた民間企業の必死の努力、さらにアメリカ経済の好調と中国経済の急成長による貿易の拡大のよってもたらされたものでした。貿易も「銭勘定」の世界です。政府が寄与したのは、不良債権処理を促し、金融の安定化をはかったことだと思います。政策が万能ではなく、政府と民間の役割の違いをしっかり考えないといい結果はでないということがはっきっりしてきたように感じます。
国際関係でも、この間の日本と中国、中国と台湾の関係は、「銭勘定」で大きく進展してきました。対中国貿易額が対アメリカを上回り、台湾から中国への投資も急速度に伸びました。こんな現実も、企業や投資家がそれぞれの「銭勘定」、つまり経済的利益を求めた実務を積み重ねてきた結果です。
しかし、お互いの関係がしっくりいかないのは、それぞれの国の国内問題であったり、政治の問題だという現実が浮き上がってきています。もし「銭勘定」に支えられた経済交流が進んでいなければ、もっと厳しい国際緊張が生まれていたにちがいありません。「銭勘定」が政治の暴走に歯止めをかけているとうのが現実だと思います。
当然、社会を維持発展させていくためには、なにでも「銭勘定」で考えればいいということではないと思います。しかし、今、日本が抱えているもっとも深刻な問題は財政赤字なのではないでしょうか。財政破綻した国の不幸はいうまでもありません。先日の木村剛さんの「並大抵の覚悟では日本は再建されない」というエントリーは全く同感だという思いで読ませていただきました。
官僚は財政破綻しても失業するわけではなく、ペーパーでシナリオさえ描いていれば責任が問われるわけではありません。政治家も地元で財政赤字の危機を訴えても票にはつながりません。道路をつくる、橋をかける、あなた方の団体の利益を守りますといったほうが票になります。つまりこういった人たちは、実際に不利益を被るわけでなく、当事者能力の資質に欠けるということです。
財政赤字問題は、実際にその負担や被害を被る国民のシビアな「銭勘定」がないと解決できないと思います。そう考えると政治家、また政府、官僚に対して、まだまだ国民は寛容すぎるのではないかと思えてなりません。
ドラッカーは、「第二次大戦後、政府計画が多少なりとも成功している国は、唯ひとつ、日本だけ」といっていますが、確かにそうだと思います。しかし「成功は失敗の母」です。一度成功してしまうとなかなかそこから思い切って抜け出すことができません。最後は日本脱出計画を立てることがもっとも有効な自衛策だというようにならないことを祈るばかりです。
↓ おひとり、おひとつのクリックが励みになります。

よろしくお願い致します。(^_^.)
さらに「経済的な問題には、費用対効果の尺度がある。しかし、倫理や道義にの問題では、費用対効果は、『原則放棄』や『背信行為』と同じであって、汚らわしい言葉とされる」というくだりがあります。
費用対効果という視点、つまり「銭勘定」で考えることがタブー視され、片隅においやられがちだということです。「大所高所」というのは、根っこには倫理や道議、あるいは信念、思想といったものから来ていると思いますが、それは結果がほとんど問われませんから言いたい放題です。新聞社の社説もその典型でしょう。こう書いたというアリバイにしかすぎないのかもしれません。
しかし、、日本ではまさに「銭勘定」の問題が焦点となってきてます。政府、また公共事業のあまりの不効率、膨れあがった財政赤字に国民の怒りも高まってきています。
政府の力ですが、実際、この何年かで日本が経験したのは、公共投資を大奮発しても景気回復につながらず、景気の回復は、「銭勘定」を求めた民間企業の必死の努力、さらにアメリカ経済の好調と中国経済の急成長による貿易の拡大のよってもたらされたものでした。貿易も「銭勘定」の世界です。政府が寄与したのは、不良債権処理を促し、金融の安定化をはかったことだと思います。政策が万能ではなく、政府と民間の役割の違いをしっかり考えないといい結果はでないということがはっきっりしてきたように感じます。
国際関係でも、この間の日本と中国、中国と台湾の関係は、「銭勘定」で大きく進展してきました。対中国貿易額が対アメリカを上回り、台湾から中国への投資も急速度に伸びました。こんな現実も、企業や投資家がそれぞれの「銭勘定」、つまり経済的利益を求めた実務を積み重ねてきた結果です。
しかし、お互いの関係がしっくりいかないのは、それぞれの国の国内問題であったり、政治の問題だという現実が浮き上がってきています。もし「銭勘定」に支えられた経済交流が進んでいなければ、もっと厳しい国際緊張が生まれていたにちがいありません。「銭勘定」が政治の暴走に歯止めをかけているとうのが現実だと思います。
当然、社会を維持発展させていくためには、なにでも「銭勘定」で考えればいいということではないと思います。しかし、今、日本が抱えているもっとも深刻な問題は財政赤字なのではないでしょうか。財政破綻した国の不幸はいうまでもありません。先日の木村剛さんの「並大抵の覚悟では日本は再建されない」というエントリーは全く同感だという思いで読ませていただきました。
官僚は財政破綻しても失業するわけではなく、ペーパーでシナリオさえ描いていれば責任が問われるわけではありません。政治家も地元で財政赤字の危機を訴えても票にはつながりません。道路をつくる、橋をかける、あなた方の団体の利益を守りますといったほうが票になります。つまりこういった人たちは、実際に不利益を被るわけでなく、当事者能力の資質に欠けるということです。
財政赤字問題は、実際にその負担や被害を被る国民のシビアな「銭勘定」がないと解決できないと思います。そう考えると政治家、また政府、官僚に対して、まだまだ国民は寛容すぎるのではないかと思えてなりません。
ドラッカーは、「第二次大戦後、政府計画が多少なりとも成功している国は、唯ひとつ、日本だけ」といっていますが、確かにそうだと思います。しかし「成功は失敗の母」です。一度成功してしまうとなかなかそこから思い切って抜け出すことができません。最後は日本脱出計画を立てることがもっとも有効な自衛策だというようにならないことを祈るばかりです。
↓ おひとり、おひとつのクリックが励みになります。

よろしくお願い致します。(^_^.)
![]() 美味しい飲み比べセットあります。酒米王様「山田錦」で仕込んだ至高の飲み比べ違いを感じてみ... |
この先入観のせいで、多くの人が損をしているのではないでしょうか。
先日は、アメリカ大統領の就任式がありましたが、ホワイトハウスの
閣僚の年収が日本円で2,000万円程度に抑えられていることを
考えると、日本の有権者というのは相当な太っ腹だと思います。
そして新聞の社説は「正しい・正しくない」という基準で天下国家を
論じ「論議をつくせ」とか悠長なことを言っている。日本人は、もっと
私利私欲にこだわった方がいいと思うことが多いですね。