魯山人といっても、それは誰だと思う人も多いかもしれません。「美味しんぼ」の「海原雄山」のモデルとなった人物と言えばなんとなくイメージが湧く人が多いのではないでしょうか。
魯山人のことはそう詳しくはないのですが、すくなくとも篆刻から陶芸、そして料理にいたる活動の巾の広さで異才を発揮した芸術家でした。活動の分野の広さもさることながら、「ゆかりの地」が多いことにも驚きます。生まれは京都ですが、その後、魯山人に魅せられた、近江や加賀の豪商の家に招かれ居候しながら作家活動を続けてきたからでしょう。
今でも、近江や加賀では魯山人のゆかりの旧家がたくさん残っています。後に麹町の星岡茶寮の顧問兼料理長としても活動し、鎌倉に住まいや陶芸の工房があったので鎌倉もゆかりの地ですね。
その魯山人は決して恵まれた生い立ちではありません。京都の木版師福田家の養子となり、丁稚奉公にも出されています。その魯山人が最初に成功したのは西洋ペンキを使った看板づくりの仕事で、その後東京に上京し、書道家であった岡本太郎の祖父のもとに弟子入りをします。
頭角を現してきたのはそのころからではないでしょうか。長浜に逗留していたころは、まだ「福田大観」の名で、手がけていたのは「篆刻」と「書」と「看板」でした。だから魯山人が手がけた看板があちこちに残っています。
さてその魯山人が残したのが、長浜の名家安藤家の「小蘭亭」(上の写真)です。安藤家の向かいに居候していた魯山人が、当時の当主が立てはじめた中国風の離れの天井や、扉、衾など、言ってみればインテリアをすべてやったのです。その自由奔放な発想や色彩感覚は今でも鮮烈な印象を受けます。
手摺が湾曲していますが、これは一本の木を削ってつくったものだそうで、たいそう贅沢で手をかけた建物であったことがわかります。魯山人が、小蘭亭に訪れたときに柱の節に金箔を貼って、木目を描いているところなんかも面白い。
この長浜時代は魯山人がさらに飛躍していく大きな節目になったようで、長浜に旅行されたときはこの安藤家の「小蘭亭」を見学されることをオススメします。ただ保存を考え、公開されるのは年に4回だけだそうです。幸いなことに今回も含め、訪れた2度とも公開されていましたが、お出かけの際は確かめてからのほうがよさそうです。
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魯山人のことはそう詳しくはないのですが、すくなくとも篆刻から陶芸、そして料理にいたる活動の巾の広さで異才を発揮した芸術家でした。活動の分野の広さもさることながら、「ゆかりの地」が多いことにも驚きます。生まれは京都ですが、その後、魯山人に魅せられた、近江や加賀の豪商の家に招かれ居候しながら作家活動を続けてきたからでしょう。
今でも、近江や加賀では魯山人のゆかりの旧家がたくさん残っています。後に麹町の星岡茶寮の顧問兼料理長としても活動し、鎌倉に住まいや陶芸の工房があったので鎌倉もゆかりの地ですね。
その魯山人は決して恵まれた生い立ちではありません。京都の木版師福田家の養子となり、丁稚奉公にも出されています。その魯山人が最初に成功したのは西洋ペンキを使った看板づくりの仕事で、その後東京に上京し、書道家であった岡本太郎の祖父のもとに弟子入りをします。
頭角を現してきたのはそのころからではないでしょうか。長浜に逗留していたころは、まだ「福田大観」の名で、手がけていたのは「篆刻」と「書」と「看板」でした。だから魯山人が手がけた看板があちこちに残っています。
さてその魯山人が残したのが、長浜の名家安藤家の「小蘭亭」(上の写真)です。安藤家の向かいに居候していた魯山人が、当時の当主が立てはじめた中国風の離れの天井や、扉、衾など、言ってみればインテリアをすべてやったのです。その自由奔放な発想や色彩感覚は今でも鮮烈な印象を受けます。
手摺が湾曲していますが、これは一本の木を削ってつくったものだそうで、たいそう贅沢で手をかけた建物であったことがわかります。魯山人が、小蘭亭に訪れたときに柱の節に金箔を貼って、木目を描いているところなんかも面白い。
この長浜時代は魯山人がさらに飛躍していく大きな節目になったようで、長浜に旅行されたときはこの安藤家の「小蘭亭」を見学されることをオススメします。ただ保存を考え、公開されるのは年に4回だけだそうです。幸いなことに今回も含め、訪れた2度とも公開されていましたが、お出かけの際は確かめてからのほうがよさそうです。
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