かつては社会党の党首であり、また1989年の第15回参議院選挙では「マドンナ旋風」を巻き起こし、自民党を過半数割れに追い込んだことのある土井たか子さんがお亡くなりになりました。心からご冥福をお祈り申し上げます。
当時、長期的に凋落していた社会党に風が吹いたのは、消費税導入やリクルート事件に対する国民の強い批判があってのことでした。その後は党名を「社民党」に変えても、衰退の一途であり、かつては野党を代表していた党も、今では泡沫政党に過ぎなくなっています。
感じるのは、同じ時代の変化でも、その時々の状況変化である風と大きな時代の構造の変化である潮流はことなるということです。土井たか子さんが象徴するように、一瞬、風を摘むことはできたとしても、残念ながら潮流には乗り遅れ、時代の変化に対応できないままに、国民の支持を失い、存在すら忘れさられていったということではないでしょうか。

風をつかむという点では、かつて、長期政権だった中曽根元総理は、政界の変化を読みとることに長けていたので「風見鶏」の異名でも知られていました。その意味では土井たか子さんは才覚があったと思います。
しかし、その当時から時代環境の構造変化が国境を超えて激しく起こり、日本を取り巻く環境も大きく変化しました。IT革命、グローバル化、経済のソフト化などの変化だけでなく、新興国の台頭があり、世界のアメリカ、アジアの日本という軸にもパワーシフトが起こってきています。

そういった新しい現実の前で、戦前、戦中、戦後に培われた価値観が意味を失ってきていることを強く感じます。
松本徹三さんがアゴラで、かつての「社会主義」はもちろんこのと、「皇国史観」も「国家主義思想の復活」も、たとえ国内では思想のビジネスとしては成立しても、場合によっては、世界から孤立する道の危険性をみせてきており、「歴史観」で現実を見る時代が危うくなってきていることを指摘されています。強く賛同します。
「史観」いろいろ
では、そういう私が依って立つ「史観」は、どう呼べばよいのだろうか? いくら考えても適当な言葉は見当たらないが、「そもそも「国家主義思想の復活」、固定した『史観』などというものは、持たないほうがよいのではないか」という「開き直り」も出来ると思っている。

一言で言うなら、「全ての史実は徹底的に検証し、分析によってその本質を焙り出す。些かの嘘も誇張も許さない。その上で、そのそれぞれをどう評価するかは、色々な人たちに色々な考え方がある事にもよく配慮しながら、一つ一つ公正無私に徹して考えていく」という事だけでよいのではないだろうか?
そもそも、馬車で公道を走っていた時代のルールで、自動車がひしめき、ジェット機が空を飛び交う時代を制しようというのには無理があり、逆に現実と向きあうことを遠ざけるばかりです。新しい現実に沿った価値観やルールを生み出すのが自然だと感じます。

そういえば朝まで生テレビで、津田大介さんが、朝日新聞の誤報というか捏造記事問題で、はじめに思想ありきで、それにそった事実を集めようとするジャーナリズムのあり方として批判されていました。そういったジャーナリズムのあり方も同じことを感じます。

土井たか子さんの「護憲」にも功罪はあります。確かにアメリカ流の正義に日本が巻き込まれることを防ぐ役割を果たしてこられたことは評価しますが、問題は、憲法を国民が触ってはならないタブーにしてしまったこと、国民自らが憲法を考える機会をことごとく潰してしまったことではないでしょうか。自民党も、自主憲法制定も看板に過ぎず、実利のほうを重視し、憲法解釈で屋上屋を重ねてきたのです。

松本徹三さんは歴史観についてご指摘ですが、今そこにある現実が投げかけている課題に、どう向き合うか、またどのようにクリエイティブな処方箋を描き、それを実行する能力を競い合う政治に期待したいのです。かつての思想から出発した与野党バトルではなく、政策で競い合うコンペの時代を望みたいものです。


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