先週の「朝まで生テレビ」で、日本は「なめられたらだめだ」を連呼していた人がいました。なんだかヤクザ映画みたいだなと感じました。「なめられない」というと、 「鬼龍院花子の生涯」で夏目雅子が「なめたらいかんぜよ」が有名ですが、極道の妻たちのシリーズで 十朱幸代が「虫けらや思ってナメてたら、その首飛ぶかもしれまへんで!」と啖呵を切るシーンも迫力がありました。
ヤクザ映画は、そういった決めゼリフで見る人を酔わせ、仁義を破り、己の利益に走る悪徳ヤクザが切られることで日頃のストレスを発散させてくれます。高倉健の任侠映画を見て映画館をでてくる人たちは高倉健になっています。しかしそれは非現実な世界に誘われた高揚感であり、時が経てばまた日常に戻ってしまうのです。

「なめられない」ことを目指すことは、裏返せば強いコンプレックスと恐怖心があることをうかがわせます。そして威勢を張って相手を威嚇するという行動につながります。その緊張がやがて血で血を洗う抗争につながっていきます。国家間では際限無く軍事緊張が高まり、互いを疲弊させ、一触即発の事態も引き起こされかねなくなります。アメリカの軍事産業にとっては利益になるでしょうが、日本の国益にはつながって来ません。

「自信と誇りのもてる日本へ」というのもいいことを言っているようで、よくよく考えると、それは自信も誇りも失った日本がそこにあるという自虐的な認識です。果たしてそれほど日本は自信もなくし、誇りもない国、また国民になってしまったのでしょうか。確かに閉塞感が長く続いてきたためにそう感じるのでしょうが、本当にそうであればもっと日本は経済的にも激しく失速していたはずです。しかも、なにか負の状態から抜けだそうというのでは共感できません。

安倍総理の祖父岸信介元首相は、「東條内閣の一員でA級戦犯容疑者として逮捕されながら、CIAの反共政策への協力を申し出て極東国際軍事裁判への起訴を免れ」(ウィキペディア)、さらに朝鮮戦争勃発により東西の緊張が高まったなかでアメリカに政界復帰されてもらった人なので、複雑な心境になるのでしょう。
特殊といえば特殊な立場です。おそらくそういった感情を幼い頃から抱いて育ってこられたのでしょう。「自信と誇りのもてる日本へ」という目標にもそれを感じます。

しかし、「自信と誇り」を持つことは大切なことだとしても、人は社会のなかで生き、国は国際社会のなかで存在しています。まして今日のように、情報も一瞬で国境を超えて伝わり、経済もグローバル化してくると、お互いの「関係」を意識しなければ成り立たない時代です。

つまり互いの関係でいえば「自信と誇り」を持つことと同時に、相手からの「信頼と尊敬」を得ることを目指さなければなりません。それは切り離せません。相手から「信頼と尊敬」を得られるから、「自信と誇り」が持てるのです。相手からの「信頼と尊敬」を得るための行動を生み出すためには、「自信と誇り」が欠かせません。

「自信と誇り」を持つことを目指すだけなら、ともすれば内向きで、自己満足に終わってしまいます。それでは誰の幸せにもならないのです。「信頼と尊敬」を目指すなら、相手とのコミュニケーションも必要でしょうし、何よりも他の誰にも提供できないサムシングを提供しようと努力するでしょう。

そしてもし日本でなにかが失われつつあるとすれば、時代の変化をバネにして自らも変化していこうとするしなやかさや、またそうしようと知恵や動きを生み出すエネルギーではないかと感じます。

「自信と誇り」が、コンプレックスの裏返しでは明るい道は開けてきません。それよりは「信頼され尊敬される」国づくりを目指し、成果を出していくことへの強い気持ちを持ち誓うことが、今日の日本を築くことに心血を注いだ方々、また先の大戦で犠牲になられた戦没者の方々へのなによりもの慰霊になるのではないでしょうか。