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大津いじめ自殺問題に学校や教育委員会に対して怒りが集中しています。校長が父兄会に謝罪した言葉も、生徒がなくなったことに対してではなく、騒動がおこり迷惑をかけたといった主旨のものでした。校長の言葉や態度は、学校、教育委員会、文部科学省と連なる「官僚社会主義」がなになのかを象徴しています。子どもを守ることよりも、組織を守ることのほうが優先される官僚社会第一主義と言ってもいいかもしれません。
「官僚社会主義」は、問題が起こらず、なにごともないことを理想として、また目標として制度やつくり、また現場への指導を行います。だからいじめ問題でも、子どもを守ることではなく、いじめ件数を減らすことに目標が置かれていきます。誰が考えても、それはいじめを隠すことにつながってくるにもかかわらず、それで自分たちのやっていることが正当化されればいいのです。正当化のための努力は惜しみません。だから現場の先生の雑用が増えていくのです。

「官僚社会主義」は誰からの評価にも晒されることはありません。学校のための学校であり、先生はじめ、そこに関わる人たちのための組織です。国民は官僚を、また父兄は校長や先生を評価するしくみがありません。すべてムラ社会化した仲間内の基準で評価が行なわれるだけです。

唯一責任を問えるのは司法です。違法性を指摘されること、また責任を求められること、損賠賠償しなければならないことです。それは汚点になります。だから言質をとられることには慎重で、裁判で不利になり、自分たちの責任が問われることに対しては、どう批判されても責任を認めません。

建前では政治が行政を主導することができる制度になっていますが、それは残念ながら機能していません。大臣ですら人事権を持っていません。橋下市長のように行政を動かそうとすると、さまざまな手段を使って、行政組織と利権をもっている人たちが抵抗しました。すさまじいものでした。とくに大阪市でには、選挙にまで市の職員が関与し、市長をつくってきた歴史すらあります。
また教育関係は、聖域だという言葉をつかって、またさまざまな言葉を弄して、外部からの評価に晒されることに抵抗します。日教組に属しているかどうかではなく、思想を超えて一致団結するのです。

会社の大きさを問わず、ビジネスの社会では、市場からの信頼を失うこと、つまり顧客からの信頼を失うことは死活問題になります。だから、不良品などの欠陥が発生すると、それを公表し、リコールを行います。信頼を失っては元も子もないので、不良品の発見に血眼になります。不良品を発見することは善であり、不良品を隠すことは、やがて発覚した時に致命的なダメージを受けるので、隠すこと、曖昧にしておくことは罪になります。しかし、市場からの評価を受けない学校は、いじめを隠し、わかったいじめ件数を減らせば評価されるのです。真逆です。

ビジネスの世界の競争は、奪い合う戦闘だけではありません。もちろん局面では戦闘も起こってきます。しかし、戦闘は競争の本質ではありません。戦闘でしか競争を考えられない企業は今日ではむしろ激しい価格競争に巻き込まれ、やがて敗者になっていくのです。

競争でもっと重要なのは、どれだけ広く、また深くお客様に好かれたか、信頼されたか、感動や共感を感じてもらえたかです、つまりどれだけ価値を認められたかの競争です。それはコンテストというほうが分かりやすいのです。市場のコンテストで、どれだけ顧客を引きつけるかを企業は競い合っている、だからより魅力ある価値を提供するために進化しようとするのです。

「官僚社会主義」という自らの組織の存続を第一に考える組織に、子どもたちを委ねることはそもそも危険なのです。それよりは、学校にふさわしい健全な競争を上手に取り入れることです。子どもが公立でも自由に学校を選ぶことができるだけでも、クラスを自由に選ぶことができるだけでも、少しは変わってくるのではないでしょうか。学校や先生の切磋琢磨、教育の質の向上への意欲も高まってくるはずです。