
目の前の出来事に気をとられると、その背後でなにが起こっているかを見逃してしまいます。そういった人間の習性をうまく利用したのが手品なんでしょう。今回の中国人のスパイ事件も、世の中が騒然としましたが、なにか釈然としないものを感じさせます。嫌疑が「諜報活動」ではなく、「外国人登録証明書の不正更新事件」なのです。
きっと多くの人が、なぜまどろっこしい軽微な犯罪になってしまうのか、日本には諜報活動を規制する法律がないのかに疑問を持った人は多いと思います。
しかし、よく考えてみると、今回の在日中国大使館の李春光1等書記官の諜報活動の疑いへの捜査に関しては、目的の良し悪しは別にして、なんの法的根拠もないままに当局が動いていたのではないかという疑問が浮き上がってきます。つまり法律によってではなく、公安当局の正義感や使命感によって裁量行政が行われている現実があるのではないかということが疑われます。つまり目的は正しくとも、軽微な違反に当局がおどろおどろしく動いていたことになるのです。諜報活動が行われている疑いがあれば捜査するのは当たり前じゃないかという声も聞こえてきそうですが、そうではなくその捜査を裏付ける法的根拠が必要なってくるはずです。
若い方はご存じないかもしれませんが、あいつぐスパイ事件が問題になったのは、1980年代でした。当時は日本製品とドイツ製品が華々しく世界を席巻していました。それを可能にした日本の技術だけでなく、とうぜん世界から産業や経済の動向に関した情報、また技術情報が日本に集積されていました。日本は当時の世界の焦点となる最先端技術の見本市会場だったのです。そういった情報を得るための諜報活動、特に旧共産圏からの諜報活動が盛んで、それを取り締まるための法律が整備されていないこともあって日本は「スパイ天国」とされていました。
そういう背景のもとに、1985年に自民党の所属議員の議員立法として、国家秘密に係るスパイ行為等の防止に関する法律案が提出されたのですが、野党、マスコミ、また人権派弁護士などの反発から廃案に追い込まれたという経緯があって、自衛隊法、不正競争防止法などの周辺の法律で取り締まるしかない状態のまま放置されてしまいました。今回の事案も、外国人登録証明書の不正更新事件でしかないのです。ちなみに、こちらのブログによると、この法案には自民党の谷垣総裁や大島副総裁、また今は民主党の鳩山由紀夫元総理ら7名が反対に回ったそうです。
日本で繰り返されてきた病根をそこにも感じます。自衛隊、あるいは原発に関しても、賛成だ、反対だというオン・オフの議論が平行線をたどり対案もでてこず、やがてそれらがタブーとなり、課題が闇のなかに潜り込んでしまう結果を生み出してきました。原子力ムラができあがり、いつのまにか監視機能を果たすべき保安院も原発推進の旗振り役になってしまい、肝心の安全性の追求がゆるゆるになってしまった不幸が遠因となって起こったのが福島第一原発事故でした。
今回の事件でも、もし適切な法律があれば、公安当局はその法に従った捜査活動になったはずでした。しかし、スパイ活動を防止するということでは国民のコンセンサスが得られるとしても、現実には法律を逸脱した捜査であった疑いをもちます。裁量行政だということは、そこになにか、当局や権力による隠された恣意的な意図もはいりこむ余地がでてきます。
事件そのものは、切り込み隊長さん(いまは不在だそうですが)のブログで解説していただくとして、なにか単純にスパイ活動があって、それに巻き込まれたとか関わった人がいて、それが問われるというところよりも、もう一歩離れて見ると、絶妙のタイミングで読売新聞のスクープがあったわけで、たんなるスパイ事件だったのだろうかと、釈然としないものを感じてしまいます。
今回の事件をスクープした読売新聞がこの問題を取り上げた社説で、「捜査当局は引き続き真相究明に努めるべきだ」とし、「スパイ天国と言われる日本で、官民組織の脇の甘さが突かれた。関係者は身辺に忍び寄る諜報員への警戒を怠ってはならない」と締めくくっていますが、その趣旨は理解できるものの、なんらかの諜報活動を禁止する法律の整備に触れていないところを見ると、裁量行政のほうが都合がいい人たちがいるのかもしれないとも疑ってしまいます。それは十分にありえることです。
いずれにしても、もちろん世の中は闇のなかで動くことも多々あるのが現実だとしても、公務員は法律に従って動くのが法治国家の姿であり、法を整備して、できるだけ透明性を高めていくことが健全だと感じます。
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