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経済産業省の総合資源エネルギー調査会基本問題委員会が2030年時点の電源構成について、原発の比率によって、いきなり50基の原発をすべて廃炉する0%から、安全性を高めて増設する25%まで、また市場に任せることを加えたいくつかの選択肢を示したのを受け、産経を除く各社が社説を書いていました。
そのなかで、笑ってしまったのが朝日と読売の社説です。朝日の論説委員は、つのる思いが勢い余って、感情のコントロールを失ってしまったのか、「早期ゼロ」を支持すると威勢よく書いてしまったのですが、読んでみてもその根拠がどこにもありません、つまり「なぜ」が抜け落ちているのです。

各案へのクレームのつけかたも面白く、いまの水準に近い20〜25%とする案は、野田総理が原発依存度をできるだけ減らしていく方針だから不適当だとしているのですが、総理一人の方針で長期を決めるというのもなあと感じます。

15%の案に対しては、運転開始から40年たった原発を廃炉にしていった場合だけど、その先をどうするかが示されていないから駄目だとなっています。そんな先がわかるかケセラセラです。そうでしょう。自然エネルギー利用に関してはこの先に大きなイノベーションがなければ非効率なものでしかなく、イノベーションがいつ起こって来るかは予測できません。

だから0%というのでしょうか。委員会の案はわかりづらいとしておいて、朝日の社説のほうがはるかにわかりづらい、他の案は納得出来ないから、ただ情緒的に、0%がいいなあと言っているにすぎないのです。

「大学入試問題に非常に多くつかわれる朝日新聞の社説。読んだり書きうつしたりすることで、国語や小論文に必要な論理性を身につけることが出来ます」とうたっている朝日の社説としては落第です。そのご自慢の論理性がまったく感じられないからです。これではビジネスの場でのプレゼンテーションは通用しません。重要な問題ほど「なぜ」が大事なのですから。

それに、それだけ言うなら、当然朝日新聞社屋、また特に印刷工場はもうすでに自家発電を導入しているのでしょうね。していなければ、来年にでもすべての電力を自家発でまかなうのでしょうか。できれば再生可能な自然エネルギーでお願いします。そうでなければ、一個人のブログではなく、「公器」を自認しているのですから、いいかげんな作文はやめてもらいたいものです。

新聞社の生命をじわじわと脅かしているグーグルやアップルのデータセンターはすでに電力のクリーン化を進めています。そのアップルには、まだクリーン発電比率が低いというクレームが発生しているぐらいです。会社が大きくなり、パブリックな存在となればなるほど社会的責任が求められてくるということです。しかも新聞社はなにせ公器なんですから。

読売新聞の社説は、読まなくともわかる結論で、朝日新聞と真逆ともいえる、古い原発を更新する方針の20%から25%案を評価しています。

経済への影響を指摘していることはいいとしても、「読売中興の祖」の正力松太郎が、原子力のプロパガンダの先頭に立って安全神話を刷り込んできた歴史があり、安全神話をばらまいた張本人としては、社の歴史への反省ぐらいあってしかるべきだと感じます。ずいぶん面の皮が厚いね、あんたには話は聞きたくないと啖呵のひとつも切りたくなります。過去は過去でもいいのですが、筋は通してもらいたいものです。まるで他人ごとのようには語ってほしくありません。
いずれもが「公器」だというなら、今時電子版なら社説に対する意見をもとめることは当たり前だし、ツイッターや、フェイスブックで引用して意見が書けるようにしておけばと思います。批判に直接は晒されない、だから書きたいことを、ただ一方通行で書くだけということになってしまうのも当然でしょう。それなら「社説」などと権威ぶらずに、論説委員がそれぞれブログを書けばいいのです。

ビジネスの世界は、ふつうはお客さまによって鍛えられます。満足されない、納得されない、信用されないでは市場からも退場せざるをえません。お客さまに、感動していただく、満足していただく、喜んでいただくために、ぎりぎりの努力をしているからビジネスも成り立ちます。

自己満足や社内の空気で社説を書いているとすれば、それはその先には読者の目があることを忘れているに等しく、いくら文章を書くのが上手だといっても、それ以上の価値はありません。

だから斜陽産業化していくのでしょうが、新聞社の若い人たちは、こういった社説しか書けない新聞社は機が熟せば捨てるつもりで、取材活動や記事、また主張が読者に価値あるものとして認められ、プロとして稼げる将来を目指して頑張っていただきたいものです。

そうそう、ブロゴスでとりあげられた際に下に書籍の案内がでてきます。その著者は大西宏(こう)さんで、私は大西宏(ひろし)でまったくの別人の方です。そういえば小学校の時にも同姓同名の同級生がいて、書いた絵の受賞の際にでていっていいものかどうかをためらい、後でなんで受け取らなかったのかと言われたのですが、そう言われても、間違っていたら大恥なので、子ども心ながら、世の中のややこしさを感じたものでした。平凡な名前の宿命なのでしょう。