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この世の中でなにが怖いかですが、驕りだと思います。個人にとっても、企業にとっても、政治の世界もそうかもしれません。驕りがやっかいなのは、人は自らの驕りをなかなか気が付かないことです。自分自身にもきっと驕りが潜んでいるに違いありません。きっと人にいわれるまでは気が付きません。

日本の経済に変調がおこったことも驕りが原因だったと思います。ちょっとどの本だったかは思い出せないのですが、実は1980年代に水面下で第三次世界大戦が起こっていたと書かれていたことを鮮明に憶えています。

戦勝国は第二次大戦で敗戦したドイツと日本で、敗戦国は皮肉なことに第二次大戦の戦勝国であったアメリカとソ連だというのです。当時のアメリカの状況は、失業者が教会に食事を求めて並ぶ姿が報道の映像にしばしば映っていたし、その経済的な損失は第二次大戦を上回り、ソ連にいたっては国家崩壊にまでいたったのです。
 

しかしその勝利で、日本には驕りの心が生まれ隙ができたのだと思います。

日本は、世界の社会や経済が、情報通信革命が発端となり、大きく変化したにもかかわらず、勝利の方程式をそのまま継承してしまったために、長い停滞期を迎えてしまいます。まさに成功は失敗の母をやってしまい、いまだに完全にはそこから抜け出せていません。

しかし一方のアメリカは謙虚に日本の経営を学んだだけでなく、情報通信革命を国家戦略として取り込んだことで、経済の立て直しに成功しました。そのアメリカも金融の世界の異変によって厳しい状況となっています。

まるで、平家物語にある「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり。沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす。おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし」そのものだと感じます。「盛者必衰の理」は、どんなに勢い盛んなものでも、必ず衰える、それが道理だということであり、「おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢のごとし」のように、権勢におごり昂ぶっている人も、それははかない春の夢のように長続きしないのです。

岩崎夏海さんが、ブログでこんなことを書いていらっしゃいます。自炊に賛成とも反対とも言っていないのに、「自炊は反対とブログで参戦した」と書いたことで、それで日本語は難しいと反論されているのです。

ご自身が自炊には賛成でも反対でもないとおっしゃっているので、「反対の立場」と断定したことは間違いだったのかもしれません。
日本語とは(大西宏さんにとって)難しいものだ(岩崎夏海) - BLOGOS(ブロゴス) :

大西 宏のマーケティング・エッセンス : もしも「もしドラ」の作家がもうすこしドラッカーを読んでいたら - ライブドアブログ :

しかし、文章にはコンテクスト(文脈)というものがあります。自炊代行業者を提訴した作家の先生たちの正当性を強調されている考え方そのものに、異を唱えたのです。岩崎さんの「もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの『マネジメント』を読んだら」は電子書籍で読んだので、岩崎さんご自身は電子出版に柔軟なかただということも存じ上げています。

さらに、気になったことはまだありました。この考え方です。

僕は、本を買った後の使い方まで指示されるなら、その作家の本はあまり買いたくありません。(佐藤さん)

佐藤さんのようなことを言う人が本を買う必要はありません。本はむしろ「買った後の使い方まで指示してほしい」という人が買うべきであり、また読むべきものです。
だから、佐藤さんはもう本を読まない方がいいと思います。(岩崎さん)

なぜ読み方まで指示されなければならないのか、なぜ読まないほうがいいのかが理解できません。言葉は多義的です。だから読む人たちの想像力を刺激し、作家の期待以上の解釈が生まれることもあります。いい作品ほどそうだと思います。

もちろん作家の知人もいるので、作品は身を削る思いで書かれ、大変なことだというのはよくわかります。それを言い出したら、ビジネスのなかでも、夜を徹し、身を粉にして働いている人たちはいらっしゃいます。そういった努力の結晶である製品やサービス、またソフトの使い方は、「指示して欲しい」のではなく、「ガイドラインを示して欲しい」だけのことであり、そこから先の楽しみ方はユーザーの自由です。むしろ今日は、ユーザーによっては、作り手の意図を超えて利用していることもあります。

まさか、小説や漫画の作家と、そういった作り手では違うということではないでしょうね。

さらに次の点も気になります。佐藤さんの「お年寄りの場合、電子書籍のほうが文字を拡大して表示できるので便利ですし、若者にしても、何冊も紙の本を持ち歩くのは重いので、データを端末に入れておいたほうが、どこでも読書ができて便利ということもあるでしょう」というご意見に、便利になって良いところもあれば、当然のようにそれによって損なわれることもあり、無批判に便利だからいいというのは良くないとされていることです。


しかし、佐藤さんがあげられているのは「便利」かどうかよりも、売り手が「配慮」の気持ちを持っているかどうかです。佐藤さんが「便利」という言葉を使ったとしても、それは「配慮」だと解釈すればより創造的な視点が生まれてきます。

もちろん、岩崎さんが便利さだけがいいわけでないとされているのは賛成です。わざわざ不便な旅にでるのは時間をかけることで、より深く楽しめるからです。しかし、その点でも、書籍をつねに持ち運べることは、「便利」なだけでなく、その作品に何度も触れ、味わえることなのです。不便な旅と同じ事です。またお年寄りに関しても、極端にいえば、目の不自由な人のために点字の本を出すことが。「便利」かどうかですまされるものではなく、それも「配慮」の問題です。

今日はどのように読むか、またどう読むかを指示することは作家には現実的にはできません。だからこそ、その作品をどう解釈すると、新しい意味が見出せたり、こう読むとさらに面白い視点が発見でき、さらにその作品の価値をさらに楽しめるかを示唆する存在としてのキュレーターの重要度が増してきているのです。
製品やサービスなどについても同じです。ソーシャルネットワークは、ユーザーのそれぞれの人たちが、その製品やサービスがどのような価値があるのかを伝え、また分かち合うキュレーターそのものになる世界を広げました。

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岩崎さん流に言うなら、小説や漫画という作品にしても、製品やサービス、またソフトなどの作品にしても、今やユーザーが価値を決める時代であり、そんな時代に異議を唱えるのなら、本を出版してはならないとなってしまいます。もちろんそれでも出版するのは自由なのですが。

自炊業者を提訴した作家の人たち、またその影にいると考えられる出版社には驕りを感じたわけですが、驕りと自負心は違います。作家に自負心があるように、きっとだれにも自負心はあるはずです。自負心は、困難をも克服するエネルギーとなってきます。しかし驕りと自負心の境界線はきわめて微妙で、そのどちらになるかのバランスをとる緊張感が、また人を支えているのだと思います。

いい作品をつくり、それを売るという自負心があれば、現代の読者の「読む環境」をさらに広げる電子出版にもっと積極的になっていたでしょうし、それが遅れているから自炊も生まれたことを考えるべきです。

驕りと自負心は似ていますが、全く違うベクトルを生み出します。日本の社会も、驕りを捨て、しかしこの困難もきっと克服できるはずだという自負心はもっと持ったほうがいいと感じる昨今です。

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