内田樹(たつる)先生のブログ「内田 樹の研究室」は愛読しているブログのひとつです。以前お奨めブログで内田先生のブログを取り上げたところ、マーケティングというビジネスまっただ中の人間が、なぜ内田先生なのかと不思議に感じる方がいらっしゃいました。 これでも一応大学時代はフランス文学を専攻していたといえば、なるほどと思う人も何人かはいらっしゃるかもしれません。
実は、なんの説明にもなっていないのですが、本当の理由を知ると言うよりは、納得するというのが世の中は大切じゃないでしょうか。

その内田先生が「まず日本語を」と いうエントリーをお書きになりました。その通りだと思います。戦後教育を受けてきたものとしては、日本語教育軽視の中で育ったという弊害を感じることが多 いのです。自分自身だけでなく、政治家の言葉のあまりにも軽いことにも、戦後教育の欠陥というか、文化や教養の不足、信念とか哲学の不足を感じてしまいま す。
その内田先生のエントリーに、404 Blog Not Foundの小飼弾さんが、「遠くの創造性より近くの表現力」で異議を唱えていらっしゃいます。異議と言うよりはさらに発展させる議論かもしれません。正確なところはおふたりのブログをご覧いただきたきたいのですが、言葉が創造を生み出すという内田先生に対して、言葉だけが創造を生み出す手段ではないという小飼弾さんのお話です。
どちらも正しいと思うのですが、小飼さんのおっしゃるとおりで、創造も表現も言葉だけのものではありません。今どきの若い人は言葉以外での創造的な能力が 極めて高くなってきたという現実があります。言葉と言うよりは画像や音などを組み立てながら新しい文化を生みだしてきているということです。映像や音楽な どのイメージが言葉になり始めた世代かもしれません。
そういった言語でない表現手段によって、創造が生まれるというのは太古の時代もそうでしたが、デジタル技術がさらにそれを発展させてきているように思います。

「創造というのは自分が入力した覚えのない情報が出力されてくる経験のことである。それは言語的には自分が何を言っているのかわからないときに自分が語る 言葉を聴くというしかたで経験される」という内田先生の指摘は大切なところです。 表現することが重要だということでしょう。難しそうですが、書いている内に、あるいは語っているうちに、いままで気が付かなかったことに気が付く、あっ自 分自身はこう考えていたんだと気が付くという経験はどなたもされているはずです。それはデザインとか音楽などでもそうでしょう。描いているうちに、メロ ディをつくっている内に、それがカタチになり、音となり、見返し聞き直してみると自分でも気が付かなかった効果があらわれてくるということがありますね。
しかも、それが言葉でというよりは、デジタルな技術の進展も手伝って、言葉でない表現を容易にし言葉でない文化を広がってきたという点も重要であり、実際 には、言葉だけでなく、さまざまな手段で表現していくと言うところから新しい文化が育ってきています。だから身近な表現をどんどんやっていくことで創造性 は育まれるという考え方もあるし、きっとその通りでしょう。
それを理解しつつも、「まずは日本語」というのは大賛成です。なぜなら、小飼さんがおっしゃるように、それを最も身につけることが表現手段として簡単だか らです。あるいは教えることが簡単だからです。 おそらく言葉以外による思考とか表現を学校で教えるというのは、教える側の力量も含めて限界があるような気がします。さまざまな表現手段をすべての人がも てるわけではありません。日本語は身につけ、磨くには簡単ですが奥も深いのです。意外なことですが、すくなくとも明治以降に日本がこれだけ急速に発展でき た秘密のひとつに、誰もが読み書きできたということがあったように思います。江戸時代からすでに「読み書き」教育は普及しており、ほとんど文盲がなかった のです。そんな国は世界でも希有なのです。 創造性は、言葉から生まれることは限らないのですが、考え方をまとめ、また伝える道具として、また文化の基礎としての日本語の教育に力をいれることは大賛 成です。

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