ジャーナリストである団藤さんが、第三のビールはビール文化を貶める製品だという否定的なご意見を書いていらっしゃったので、それはそれで好む人たちがいらっしゃるからいいのではないか、それに、もともと日本のビールをめぐる世界は、じっくり「味を楽しむ」というとよりは、「のどごしを楽しむ」清涼アルコール飲料に近いものであり、「文化」と騒ぐほどの問題ではないということをこのブログで書き、トラックバックさせていただきました。
さっそく、今度は食文化にもジャーナリズムにも契約関係がというタイトルで、ビールの守るべき契約とという視点を投げかけてこられました。読ませて頂きましたが、書かれていることは「品質」の問題ではないかと感じました。確かに、高度な日本の消費市場にあってはメーカーにとって「品質」は命であることはいうまでもありません。飲む人たちが期待する品質をしっかり提供していかなければ市場からはじき飛ばされます。
それでかつてキリンビールが覆面部隊をだして流通在庫の品質をチェックしていると聞いたということを書いておられました。確かにビールは卸さんや小売店さんで在庫として置かれている間に、徐々に品質が劣化していきます。管理が悪いと品質の劣化はさらに激しくなります。日本酒も同じことです。

しかしいかに覆面部隊でチェックしても、全国に広がった流通在庫の品質を管理するとことはなまやさしいことではありません。どうしても売れ残って古くなったり、管理が悪いために品質が劣化するビールがでてきます。
だから結局は、商品の回転の善し悪しが品質に大きく影響してきます。よく売れるトップブランドはどんどん回転するのでお客さまは品質が劣化していない新鮮なビールが買えます。しかしシェアの低いブランドは、回転率が劣りがちで、また売れ残ることも多く、お客さまが手に取ったときには古いために品質が劣化してしまってトップブランドと差が生じて、ますます不利になるということも起こってきます。

この品質問題で思い切った経営の大英断をしたのがアサヒのドライでした。一定の日付を過ぎたビールは回収するという戦略が、このドライの快進撃の陰にありました。当然莫大な経費がかかります。しかし、古くて味が劣化したビールでは王者のキリンに勝てません。ブランドで劣っていたアサヒは「鮮度」による「品質」の差別化を徹底して成功したのです。
これはひとえに、「文化」ではなく、「品質」の問題です。しかも「品質」を守ると言うこととマーケットの変化に適応した新しい分野をつくり出すという問題は別次元の問題です。きっとビール会社の人なら、第三のビールも厳しく品質を守っているとおっしゃるものと思います。

さまざまな生活のスタイル、価値観、嗜好の違いに合わせ、違う味覚、違う商品を提供し選択できるようにするということは市場の細分化(セグメンテーション)戦略ですが、もしそういった努力をしていなければ、ビール離れが進行し、ビール市場はもっと落ち込んでいたでしょう。こういった嗜好品は、ビール同士で競争しているだけではなく、例えば酎ハイといった他のカテゴリーとも競争しているのですから。
異なるものを求めている人たちには、異なる価値、異なる味覚を提供するということが行われているので、かつてのビールの味が好きな人たちには、その嗜好に適したクラッシックなビールがあり、各社ともしっかりマーケティングを行っているように感じます。

お酒の嗜好というのは人によって違います。クラシックなビールが好きな人もいれば、ドライが好きな人、第三のビールが好きな人もいるのです。ビール業界も別にすべてを発泡酒、第三のビールにしようとしているわけではないはずです。それが市場の細分化ということです。

ビールにしても、日本酒にしても、お酒の分野は、さらに税制による影響を受けます。ディスカウンターが台頭し、どんどん価格が下がっていくという厳しい状況のなかでは酒税はずしんと響いてきていると思います。税制のルールの中で、税を下げて低価格化を実現し、しかもおいしいと評価される技術開発、また利益のでる商品開発をしていかなければ経営が成りたちません。なにもしないでただただ古いタイプのビールだけに頼って売り上げや利益を落としたときに、経営者は社員の人たち、株主の人たちにはどう説明したらいいのでしょうか。無策だ、経営努力がないと非難されると思います。
むしろ後出しじゃんけんで、そういった企業努力を無にするような税制の変更を行う国税のやりかたのほうにこそ疑問を感じます。

さて、キリンビールの話がでましたが、今でこそマーケティングも積極的で、失礼ながら「立ち直った」キリンさんですが、かつては完全にトップシェアの座に胡座をかいていたのが実態だったと思います。「なにかをしてシェアが上がると独占禁止法にひっかかりますから」というまことしやかな話が社外にも聞こえていました。なにもしないことが正当化される垢のようなものが溜まっていたのだと思います。だからアサヒにつけ込むスキを与えてしましました。
社会も市場も変化するのです。人びとのライフスタイルはどんどん変化してきました。「食」は保守的な分野だといわれていましたが、それでも大きく様変わりしてきました。
メディアの環境はもっと激しく変化し、さらにもっと変化しようとしています。しかし再販制度という安定したしくみ、お互いお客さまを囲い込んだなかで、大きな競争も、また大きな革新もなくやっている日本の新聞は、私たちから見ると、どうしてもかつてのキリンビールと重なって見えてしまうのです。

かつてのキリンビールも決して品質をおろそかにしていたとは思いません。時代の変化が見えなかっただけ、あるいは変化に向き合うことをしなかっただけのことだと思います。新聞の世界も、情報の品質は命です。しかし情報の品質ということとは違う次元で、メディアを取り巻く状況は変化してきました。
紙、再販制度、広告収入といった現状のビジネスモデルで将来ともやっていけるとはとうてい思えません。衰退する産業の常は、まだまだやっていけるという楽観主義で身動きがとれず、やがて気が付いたときには、すでに大きな変革を起こすパワーを失っているというものです。新聞には新聞の使命があり、そうはなっては欲しくないものですね。

(新幹線で書くと長文になっていけませんね。)

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